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第35話 七人の元入居者

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-08-26 10:51:45

 朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。

 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。

「写真が撮られた時間と重なる」

 朔は端末の時刻を照合しながら言った。

 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。

 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。

 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。

 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。

「七人という前提から見直す」

 蓮司が言った。

 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。

「この三人」

 蓮司が赤い線を引く。

「警察の行方不明者データに一致しない」

 悠斗が資料を覗き込む。

「届け出が出てないだけじゃないのか」

「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」

 澪が顔を上げた。

「じゃあ、生きてる?」

「少なくとも転居手続きはされている」

「本人が?」

「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」

 美月も資料へ近づいた。

「家財は残したのに、住民票だけ移した?」

「そうなる」

 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。

「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」

「普通なら」

 蓮司の声は低かった。

 七人のうち、本当に行方が分からなくなっている女性は四人。残り三人は、常世荘から突然姿を消したあと、別の場所へ住所を移している。だが管理会社には退去届も鍵の返却もなく、室内には衣服や食器、家具が残されていた。

「逃げたんじゃないか」

 悠斗が言った。

「荷物を捨ててでも」

「何から?」

 奈々香の問いに、誰もすぐには答えなかった。

 蓮司は三人の転居先を一つずつ追っていた。そのうち一人、十二年前に二〇三号室へ住んでいた藤崎杏奈という女性だけは、現在の住所まで確認できた。今は常世荘から数百キロ離れた地方都市で暮らしており、名字も変わっていない。

「電話番号が残ってる」

 蓮司が端末を見た。

「現在も使われている可能性が高い」

「今かけるの?」

 澪が訊く。

「昼になる前に聞く。夜を待つ理由はない」

 蓮司は番号を入力し、スピーカーにはせず耳へ当てた。三度目の呼び出し音でつながったらしく、彼の表情が変わる。

「藤崎杏奈さんでしょうか。突然申し訳ありません。御影と申します。十二年前に住んでいた常世荘について――」

 相手が何かを言った。

 蓮司が言葉を止める。

「分かりました。ですが、二〇三号室で起きたことについて確認したいことがあります」

 また沈黙。

「椎名澄花という名前に心当たりはありませんか」

 その瞬間、蓮司の眉がわずかに動いた。

 澪は息を止めた。

「知っているんですね」

 電話の向こうから、かすかな女の声が漏れた。

『その子……見ました』

 澪の胸が強く締まった。

 蓮司は端末を澪へ差し出した。

「本人と話せ」

 澪は両手で受け取った。

「もしもし。雨宮澪といいます。椎名澄花の友人でした」

『……友人』

「はい。八年前に、澄花を見たんですか?」

 電話の向こうで、女が長く息を吐いた。

『八年前です』

「どこで?」

『常世荘』

 澪の指に力が入る。

『私、あの部屋から逃げたあと、一度だけ荷物を取りに戻ったんです。昼でした。夜には絶対戻りたくなかったから』

「そのとき、澄花が?」

『二階の廊下に女の子が座ってました』

 杏奈の声は、記憶を探るように遅かった。

『制服。髪が長くて……額を怪我してた。血が乾いたみたいに黒くなってて、でも本人は普通に座ってたんです』

「右手首に何かありませんでしたか」

『赤い紐』

 澪は目を閉じた。

 間違いない。

 八年前。

 七刻女学校から姿を消した翌日、理科準備室から出てきた澄花。その後、常世荘へ来ていた。

「澄花と話したんですか?」

『少しだけ』

「何て?」

『ここに入らない方がいいって言いました』

「どうして?」

 電話の向こうが静かになった。

 杏奈は答えたくないようだった。

「お願いします。私たち今、二〇三号室にいるんです」

『出た方がいいです』

 今までより強い声だった。

「でも、何が起きているのか調べないと」

『調べても、最初は何も出ません』

「最初は?」

『幽霊なんかじゃなかったから』

 澪の背筋が冷えた。

「じゃあ、何がいたんですか」

 杏奈の呼吸が浅くなる。

『壁の中に、人が住んでたんです』

 部屋にいた全員が動きを止めた。

 澪は押し入れを見る。

「人が?」

『男だったと思います』

「顔を見た?」

『ちゃんとは見てません。でも、大きかった。夜中に音がするんです。壁の中を移動する音。最初は鼠だと思いました』

 杏奈の声は次第に速くなっていった。

『でも、食べ物が減るようになった。冷蔵庫に入れてたものじゃなくて、菓子とかパンとか。下着の場所も変わってた。洗濯して畳んだはずなのに、別の引き出しに入ってたり』

「警察には?」

『相談しました』

「調べてもらったんですよね」

『壁も見てもらいました。押し入れも。でも何もなかった』

「昨日、私たちは壁の中にカメラとスピーカーを見つけました」

 杏奈が黙った。

「当時もありましたか」

『分かりません。でも、穴はあった』

「穴?」

『浴室』

 奈々香が反射的に浴室の方を見る。

『お風呂に入ってたら、壁の小さな穴に何か光ったんです。最初は水滴かと思った。でも目でした』

 澪の喉が乾く。

『人の目。見られてた』

「それで逃げた?」

『それだけじゃないです』

 杏奈の声が震え始めた。

『夜中に寝てると、押し入れの中で呼吸するんです。私が起きると止まる。眠ったふりをすると、襖が少し開く』

 澪は昨夜を思い出した。

 午前一時十三分。

 少しだけ閉じた押し入れ。

 枕元まで続く裸足の足跡。

『一度だけ、寝たふりをしたまま見ました』

「何を?」

『男が出てきた』

 澪の指が震えた。

『すごく痩せてた。髪も伸びてて、服が汚れてた。壁の中に何日もいたみたいな臭いがした』

「その人が、過去の女性を?」

『分かりません。私はその場で叫んだ』

 杏奈は一度言葉を止めた。

『台所まで逃げて、包丁を持ったんです』

 美月が澪の近くまで来た。

「それで?」

『男も出てきた。こっちを見てた。怒ってるんじゃなくて……笑ってた』

「襲われた?」

『近づいてきました』

 杏奈の呼吸が乱れる。

『私、包丁を向けて、来たら刺すって言った。でも男は止まらなかった』

「どうなったんですか」

『人形がいた』

 澪は返し雛を思い出した。

「日本人形?」

『はい』

「どこに?」

『押し入れ』

「最初からあった?」

『なかった』

 杏奈の声が小さくなる。

『絶対になかったんです。私、ああいう人形が苦手だから、あったら覚えてる』

「それが、突然?」

『男の後ろに立ってました』

「立って?」

『座ってたのかもしれない。でも、位置が変わった』

 杏奈の声は確信と恐怖の間で揺れていた。

『最初は押し入れの奥。次に見たとき、男の真後ろにいた』

「誰かが動かした可能性は?」

『部屋には私と男しかいなかった』

 澪は言葉を失った。

『男も気づいたみたいでした』

「人形に?」

『振り返った』

「それから?」

 数秒、何も聞こえなかった。

『人形が男を見上げてた』

 澪の背中に鳥肌が立つ。

『目、閉じてたはずなのに。見られてるって分かるんです』

「男はどうしたんですか」

『逃げた』

 杏奈は息を吐いた。

『壁の中に戻っていった』

「次の日は?」

『いなくなりました』

「確認したんですか?」

『音がしなくなった。食べ物も減らなくなった。押し入れも動かなくなった』

「それで荷物を残して逃げた?」

『はい』

 杏奈の声が僅かに落ち着いた。

『その日のうちに友達の家へ行って、住民票も移しました。家具なんてどうでもよかった。二度と戻りたくなかった』

「警察には、その男のことを」

『言いました。でも証拠がないって』

「人形は?」

『言ってません』

「どうして」

『信じてもらえるわけないでしょう』

 澪は返せなかった。

 七刻女学校で起きたことを警察へ説明した自分たちも、同じだった。

「八年前、澄花に会ったとき、人形は?」

『持ってました』

 澪の呼吸が止まる。

「黒い袋?」

『そうです』

「中に人形があった?」

『見せられました』

「澄花は何て言ってましたか」

 杏奈は記憶を探るように黙った。

『戻さなきゃいけないって』

「どこへ?」

『部屋の中じゃないって言ってました』

 澪の眉が寄る。

「どういう意味ですか」

『元の場所は部屋じゃない。もっと奥だって』

 澪は押し入れの外された奥板を見る。

 壁の向こう。

 配管と断熱材。

 昨日見つけた空洞。

「奥って、壁の中?」

『そこまでは聞けませんでした。あの子、誰かを待ってるみたいでしたから』

「誰を?」

『分からない』

 杏奈の声がそこで急に止まった。

 電話の向こうで、硬いものが床へ落ちた。

 からん。

「藤崎さん?」

 返事がない。

「どうしました?」

『……嘘』

 杏奈の声が、今までで一番小さくなった。

「何が?」

『そんなはずない』

「藤崎さん」

『来ないで』

 遠くで玄関のチャイムが鳴った。

 一度。

 二度。

 澪の指が冷たくなる。

「誰か来たんですか」

『違う』

「玄関を開けないでください」

『人じゃない』

 杏奈が息を呑んだ。

『人形が……』

 澪の喉が詰まった。

「人形?」

『玄関にいる』

「扉の外?」

『中』

 美月が澪の肩へ触れた。

「玄関の中に?」

『靴の横』

 杏奈の声が泣き出しそうに震える。

『さっきまでなかったのに』

 常世荘から数百キロ離れた町。

 十二年前に逃げた女の家。

 そこへ。

「藤崎さん、外へ出られますか」

『無理』

「窓は?」

『廊下に……』

 杏奈の呼吸が止まった。

 電話の向こうで、畳ではない床を何かが擦る。

 さら。

 さら。

 小さな硬いものが玄関から室内へ移動しているような音だった。

「藤崎さん!」

『動いた』

「何が」

『人形』

 声が裏返る。

『こっち向いた』

 通話が切れた。

 澪はすぐに掛け直した。

 一度。

 二度。

 呼び出し音すら鳴らない。

 圏外ではない。

 接続できませんという機械音だけが返る。

「住所」

 蓮司が立ち上がった。

「杏奈の現在住所を警察へ連絡する」

 悠斗もスマートフォンを取り出す。

 美月は澪の手から端末を受け取り、通話履歴と時刻を確認した。奈々香は押し入れから距離を取ったまま、青ざめた顔で壁を見つめている。

「人形が移動したってこと?」

 奈々香が呟いた。

「昨日までここにあるって写真が来てたよね」

 澪は何も答えられなかった。

 二〇三号室に返すはずの〈返し雛〉。

 それが今、数百キロ離れた杏奈の玄関に現れたのだとしたら。

 畳の上で、何かが落ちる音がした。

 全員が振り返る。

 押し入れの前。

 昨日は何もなかった畳の中央へ、赤い組紐の切れ端が一本落ちていた。

 澪の鞄に入れていたものではない。

 もっと短い。

 先端が新しく切られたように濡れている。

 そのすぐ横へ、白い小さな指跡が一つだけ浮かんだ。

 まるで、誰かが人形をそこへ置こうとして、途中で気を変えたように。

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